一年で倒産か? |
秋の秋津野は、実りの秋である。ミカン、柿、イチジクなどの果物、キノコの種類も多く、山菜にみずみずしい野菜がある。はじけた紫色の皮の間から白く甘い蜜を滴らせるのは、アケビである。応対する女性たちの笑顔が明るい。 上秋津の中心部を抜けて龍神村方面へ約1.5キロメートル走ると、河原地区を流れる右会津川のほとりに、木の匂いがする真新しい建物が建っている。上秋津の秋津野産品直売所「きてら」である。「きて」は「来て」、語尾の「ら」は「〜してね(よ)」をあらわすこの地方の方言。つまり、多くの人に来てほしい、「千客万来」への願いが、店の名になった。 「きてら」は、1999年(平成11年)5月に現在地よりも500メートルほど離れた千鉢地区の県道沿いに開設された。その年秋、紀南地方を会場に和歌山県が開いた南紀熊野体験博を機に、地元住民の間から特産品の直売所の開設を望む声があがったのがきっかけであった。上秋津は、これまでも述べてきたように一年を通して温州ミカンを中心とした柑橘が収穫できる。ウメがある、スモモや柿もある。農家がふだん食べている野菜がある、花もある。地域活性化のひとつの方法が、直売所の開設であった。 「自分が作ったものに自分で値を付けて消費者に直接買って喜んでもらう。いいものを作らないと売れない時代、新鮮で安全な商品を安く買ってもらいたかった。それに、元気な地域は、どこも直売所がある」、代表の笠松泰充(1940年生)は当時をふりかえる。 地域づくりは、経済面がともなわないと長続きしないというのも現実だ。資金は有志31人が出資した、310万円が集まった。農家だけではない、商業関係者、サラリーマン、いろいろな職業のひとたちが金を出し、出資者に名前を連ねた。出品する商品の値段は出荷者が決める。地域住民であれば、手数料の15%を納めれば、だれでも出品できるシステムをとった。販売には、女性たちがパートタイムで勤務することにした。 店はプレハブで、広さは10坪もない、客が数人入っただけで店内はいっぱいになった。照明は、昼でも薄暗い。お世辞にも立派とは言えない建物。すべてが手探りで、すべてが手作りであった。 直売所を構え、生産した果樹やウメなどにみずから値をつけ、自分たちの手で販売・運営していくのは、上秋津では初めての経験である。この地域でも、ほかの多くの地域がそうであるように農産物の販売は、農協をとおしておこなわれてきた。平成12〜14年にかけて上秋津マスタープラン策定委員会がおこなった「農作物の販売額および販売方法」に関する調査でも、温州ミカンの販売は60.3%が「すべてあるいはほとんどが農協共販」である。中晩柑類は45.4%、青ウメは67.3%、七割近くが「農協共販」をとおしておこなわれている。「個人による出荷・販売は少数派」で、「卸売市場を媒介せず直接消費者などへ販売直販もわずか」なのが、現状である。つまり、「きてら」の開設は、それまでの「やり方」とは違うもうひとつの方法を意味した。 |
自ら始めたのだから自ら解決するするしかない |
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5月に開店した農産物直売所きてら。しかし、夏に向かうプレハブの店内は、日を追って持ち込まれる商品の種類や量が目に見えて減っていった。当然、売り上げは伸びない。少ない売り上げは、パートの女性に 支払うアルバイト代、土地の借地料、光熱費などに消えた。8月、9月と2か月連続の赤字になった。「『売れるのかなぁ』と半信半疑の者が多かった。わたしも、その年の秋ごろには倒産するかと思った」、と笠松さんは述懐する。 赤字経営のきてらを救ったのは、上秋津の特産を箱詰めにして歳暮用に売り出した「きてらセット」である。1セット3000円ほどのセット商品が、人気を呼ぶ。年度末、決算がまとまった。初年度の売り上げは、1000万円近くに達していた。関係者の間にあった不安が払拭された。何もしなければゼロ、行動すれば成果がある、かすかな自信が芽生えた。そのころを、笠松さんは次のようにふりかえる。「きてらセットが売れて客が増加した。ひとが増えれば商品も売れる、みんなの意識が変わっていくのがわかりました」。地域で初の直売所は、農村によくも悪くも“さざ波”となって広がった。 「きてらセット」は、毎年、春と夏と冬の三回売り出す商品で、きてらの“ドル箱”的な存在だ。注文をはがきやファックスなどで受け付け、地元特産のミカンを中心に季節の果樹や加工品などを詰め合わせにして、申し込んだ消費者のもとに宅配便で届ける。マスコミが紹介したり口コミで広がり、売り上げは“倍々ゲーム”のように増え続ける。「自信」はやがて、「確信」に変わる。2003年度の売り上げは5000万円を超えた。 |
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新たなる挑戦 |
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2004年4月、きてらの店舗は移転、新築された。和歌山県の「木の国の事業」に指定されたからだ。紀州材をたっぷり使った店内のスペースはそれまでの2倍に広がり、販売する商品が目立って増えた。 旬の野菜や果物が、持ち込まれるようになった。盆石や民芸品も店頭に並ぶ。当初70人余りだった出荷者は、2004年1月現在150人余りで2倍に増え、2010年4月には270人となった。高齢者は作ったものを出荷する、高齢者の生きがいの場にもなりつつある。 きてらを利用する客の7割以上は田辺市民、残りの約3割が市外からの来訪者と推定されている。最近は、紀南地方に観光に訪れて立ち寄る県外ナンバーの車も増えた。遠方から買いにくる消費者もいる。消費者との交流は、生産者に自分たちが見のがしていた価値について気づかせてくれる。「こんなものが、売り物になる」。再認識が、店頭に並ぶ商品の種類を多彩で、豊かにしていく。いま直売所で年間に扱う商品は、果物、野菜、花、漬物などの加工品を中心にざっと200種類にのぼる。商品のほとんどが、地元で作られているものだ。地産地消だ。営業は年中無休で、営業時間は午前9時から午後4時30分まで、週末ともなると大勢のひとが詰めかけてにぎわう。 |
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2004年春に加工場が完成、拠点充実で事業を拡大 |
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2004年春、秋津野直売所の敷地内に加工場と倉庫が建設される。加工施設は木造で費用は約1500万円、和歌山県の山村定住促進事業などの制度を活用する。 直売所の業績は、これまで右肩上がりの成長を続けてきた。出荷する生産者、そして売り上げも順調に伸びている。出資者は、2004年1月現在、68人となった。うち半数は非農家のひとたちである。しかし、笠松さんらはいまのまま業績が伸び続けるとは考えていない。いつか、「頭打ち」になるときがくることを警戒する。 自前の加工場を持つことは、これまで関係者の懸案であった。新しい施設はミカンとウメを中心とした加工品づくりの拠点になる。豊富なミカンを使った生ジュースなど新商品の開発が研究中だ。 また、消費者のきびしい目に耐えることができる、品質がよい商品を提供していくことは言うまでもない。旬のものを、もっとも新鮮で美味しい状態でいかにして消費者の手もとに送り届けるか。 生産者によって出荷商品の品質にばらつきが見られるケースもある。現実に、直売所を訪れた消費者が、出荷している生産者の名前を確認して買っていく光景が見られる。消費者の選別にどのように応えていくか、生産者の顔が見える直売所の“命題”だ。笠松さんは、「一層充実に努め、地産地消を推進し、食の安全性についてもP R していきたい」と言う。地元の小中学校の給食にミカンにつづき、ほかの作物も使ってもらうよう働きかけていく方針だ。 |
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都市と農村の交流が小さな直売所の生き残る道 |
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2003年初め、きてら利用者など地域と関わりがある県内外、東京や大阪などに住むひとたちあてに、文書が届いた。添えられた手紙には、「一家倶楽部」という会の立ち上げに関する案内がいっけくらぶ書いてあった。 「一家倶楽部」。「一家」、聞き慣れない身には「やくざ」の「○○一家(いっか)」を思わず想像させる“物騒な”(ひとつも物騒ではないのだけれど)名前は、よく読むと「親類づきあい」「仲間内」という親しい間柄を指すことがわかり、納得した。つまり、「一家倶楽部」は親類のように親しい仲間たち、の意味になる。要は、きてらを中心とした上秋津応援団、ファンクラブを組織する、ついては入会されないかというお誘いだったのである。 大分県・湯布院町。地域づくりの先進地として知られるこの町には、由布院温泉という地域資源と農村の景観保全しながら地域づくりを進めてきた。その結果、かつて「ひなびた寒村」と呼ばれた町は、年間約400万人ものひとたちが訪れる「すぐれた観光地」へと変身する。その湯布院には、「親類クラブ」という都市とを結ぶネットワークがある。「映画祭、音楽祭、それらのイベントは地元だけで出来ることではない。湯布院を愛するひとたちの知恵を借り、ともに地域づくりを進めていこうと」する目的から生まれた。上秋津の「一家倶楽部」もまた、そうした発想から生まれた。倶楽部に入会するには、10万円が必要である。産品直売所きてらの経営を安定化させ、都市と農村の交流をはかっていく拠点のひとつに育てていこう、とのメッセージがこめられている。 会員は、いわば「こころの株主」ということになる。21人が会員に登録した。年に一度送られてくるきてらセットと通信が、紀南地方の農村、生産者と都市、消費者双方を結ぶ。交流会も開かれた。お互いが相手に学び合い、上秋津のこれからを話し合う場にというねらいがある。 上秋津では、インターネット上のホームページの開設が盛んだ。秋津野塾だけではない、農家の若手経営者らを中心にそれぞれの農園のホームページがいくつも立ち上げられている。秋津野マルチメディア班によるI T を活用した情報発信、ラジオ放送での特別番組やC M 放送、新聞、パンフレット、さらに地域間交流。秋津野直売所きてらは、ネットワークを広げるなかで発展をめざす上秋津の地域づくりの一翼を担いつつある。「一家倶楽部」は、その核をめざす。 |
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農商工連携で6次産業化 |
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ジュース加工と販売の「俺ん家ジュース倶楽部」誕生。 もともと、特産品であるみかんをつかって、女性グループが中心となりゼリー、シャーベット、ジャム、ポン酢など加工品を作っていた。ジュース工場が出来る前には、三重県の熊野市の工場へ持ち込んだりもしたが長続きはしなかった。 みかんも、果実の形が悪く、表面に葉すれキズ跡や、病害虫に表皮が侵された跡があるだけでジュースにすれば味は変わらないにもかかわらず商品価値が無いとされていた。JA経由で大規模なジュース工場に納入していたが、集荷費、輸送費と費用がかさみ、農家には全く恩恵がなかった。このような流れで、ジュース工場・加工施設建築の話が出てきた。ジュース工場建設の原資はきてらと同じような方式で出資を募り、計30名×50万円で1,500万円の資金を集めた。場所は、きてらに隣接した10坪ほどの場所。ここに機械を入れ加工場と倉庫を建設した。本場アメリカ製のジュース搾り機を導入、毎日みかん、オレンジの生しぼりを『きてら』店内のジュースサーバーで販売を行った。この結果、非常に好評で商品化に耐える自信がついた。ジュース工場は、保健所の許可を取って、加工場としても有効に使えるようにした。 当初、手絞りで100kg絞るのに1時間かかり、600kg〜700kg絞るのに6、7時間かかり、朝の3時、4時から作業をやっていた。元加工食品会社の新住民の協力も得て、設備投資を行い、ジュース化の効率や品質を上げることが出来た。 平成16年秋からはじめて、最初の年は年間生ミカン21 t、実際には12tくらいしかジュースにならなかった。ジュースに換算して1リットルで1万本。材料となるミカンは温州、ポンカン、デコポン、清見、ネーブル、バレンシアなど。平成19年で31 t、20年で42 t。平成21年は50t〜60t。その4割〜5割がジュースとなる。 ジュースの製造量は、収穫量の多い早生温州の出来でずいぶん量が変わる。現在の課題は安定供給だが、出来、不出来に左右される。あれば作りおきもできるが、ミカン数が?なくなる季節は原料がなくなる。また、持ってきてくれる農家の数も限られている。原料確保は至上命題となっている。 多種多品種栽培のおかげで新商品の元となるミカンには事欠かないが、課題は?のものを、もっとも新鮮で美味しい状態でいかにして消費者の手もとに送り届けるかということ。また、企業化するのかという問題もある。こうした取り組みや課題はその後の農家レストラン「みかん畑」につながっている。 |
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みなし法人から株式会社へ |
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平成18年「地域に投資しなければ地域は良くならない」との考え方のもと、「きてら」を株式会社化し、地域づくりの大きな転機となった。株式会社化の大きな目的は、取り扱う金額、年間売り上げが1億円と大きくなり、きちんとした法人格で責任の所在を確かにする。取締役体制を引き、経営上の判断を素早く行い、取引先などとの契約などもスムースに行う。将来、いつかは来る世代交代時にも、法人化しておれば株主の賛同が得られればスムースに役員交代を行うことが可能である。という点にあった。 みなし法人格から株式会社への組織の移管はずいぶんと手がかかった。その後地域に誕生するグリーンーリズム運営会社は、このときの経験から、最初から株主募集を行い、法人化を行い秋津野ガルテンがスタートした。 |
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