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きてらの里で味わう

『きてら』から車で5分の距離にあります、秋津野ガルテン内に農家レストラン『みかん畑』があります。地元のお母さんたちが、地元で採れる新鮮な野菜をふんだんに使ったスローフードランチバイキングはとても人気です。
大人950円とリーズナブルなお値段です。
平日は 11:30〜14:00
土祝祭日は11:00〜14:00
ご予約はいりません。
電話 0739-35-1199


きてらの里に泊まろう

秋津野ガルテン内には宿泊施設も完備されています。
グリーンツーリズムに熊野古道の入り口の宿、南紀白浜温泉の宿にもご利用いただけます。
ご予約は 秋津野ガルテンに
電話 0739-35-1199




 『きてら』に来たなら秋津野の里を散策してみませんか

 自然と歴史が豊かな『きてら』の里、秋津野を訪ねてみませんか

 鷹尾山(現在:高尾山)千光寺は、高尾山の山すそに建つ臨済宗妙心寺派の寺院です。旧上秋津小学校(現:秋津野ガルテン)のそばから、竹林がある坂道を少し登った小高い場所にある。山門をくぐると、正面に本堂、右手に庫裡、左手に鐘楼などが建っている。
 本堂に掛かる、色鮮やかな群青の力強い文字で記した「高尾山千光寺」の額、山岡鉄舟の筆となります。
 本尊は観世音菩薩で、行基の作と伝えられています。
 言い伝えによれば、この寺の起源は約1200年前の八世紀にさかのぼる。建立したのは和気清麻呂とされる。これも寺伝だが、清麻呂は京都と岡山、そして和歌山の三つの高雄山に寺を建て、飼っていた鷹の死を悼み、骨を埋めて弔ったのだといわれています。
 千光寺がいまの場所に建てられたのは、江戸時代になってからのことで、創建当初は高尾山の中腹、標高300メートルほどのところにあったとみられる。宗派は天台宗で、創建時は七堂伽藍を有した大きな寺で本堂山門のほか、僧堂、尼堂、(あか)堂、鐘楼などが建ち並ぶ大きな寺であった。山岳修験者をはじめ多くのひとたちの信仰の寺であった。しかし、天正年間の1500年代終わり、豊臣秀吉の紀州攻めによって堂塔はことごとく灰燼に帰した、と寺伝は語る。現在の建物は、改築から100年も経っていないが、高尾山を借景としたたたずまいが美しい。
 「中宮さん」、中宮神社は、奥畑地区にまつられる神社である。奈良時代に清麻呂が京都から愛宕明神を迎えて、寺の氏神としてまつったのがはじまりとされ、その後鎌倉時代には土地を支配した愛洲氏によってまつられた。当時は桧造りの社殿が建ち、流鏑馬などもおこなわれたという。現在では、やぶさめ鳥居と拝殿、石垣を積んだ上に小さな社があるだけだが、秋祭りのころには出店が並び、餅まきでにぎわう。以前は境内の相撲場で、近郷近在の男たちがぶつかり合い力を競っていました。
 川上神社は、戦国時代に河内のひと野村氏によってまつられるようになった神社で、上秋津をひらいた神々たちをまつる。こんもりした森のなか、石垣をめぐらした内側に社殿が建っています。
 佐向谷をさかのぼった山のふもとに、磐上神社がある。農耕や薬をつかさどる神である。『紀伊続風土記』が「大石を神としてまつる祭礼11月15日」と記す立岩明神はこの神社のそばにあったが、明治時代に合祀されました。
 また、竜(龍)神山には、500メートルの山の上に、弘法大師が開いたと伝えられる龍(竜)神宮があり、下畑地区には市杵島神をまつる市杵島神社(いちきねじま)などがあります。
 上秋津は、石仏が辻々の至るところにまつられているのも特色であり、多くは「お地蔵さま」で、江戸時代の石仏が多い。村を守り、農民を守り、子どもを救うと信じられてきた地蔵信仰。この土地に生きてきたひとたちの素朴で、ひたむきな祈りのかたちであります。石仏はそのやさしいまなざしで、上秋津とそこに生きるひとたちを見つめ続けています。
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秋津野の里は自然、名勝、旧跡に恵まれています

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奇絶峡
(吉野熊野国立公園にも指定)春は桜の名所として親しまれ、約500本の桜が渓谷を彩ります。また、初夏の新緑は人々に安らぎを与えます。夏になると涼を求めて家族連れや子どもたちが訪れ、水遊びをする歓声がこだまします。秋には高尾山、三星山、龍神山のハイキング登山の拠点として史跡巡りや景勝が楽しめ、晩秋には紅葉が渓谷や岩肌を鮮やかに染め上げます。
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鷹崖三尊大石仏
奇絶峡の不動の滝の上に、巨大な一枚岩(高さ16m、幅22m)に堂本印象画伯の原画を基に厚肉彫りの彫刻がされました。中央の阿弥陀仏は、高さ7.3m(奈良の大仏の約半分)、両菩薩(観世音菩薩、勢至菩薩)は4.9mあります。
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龍神山〜竜神宮
龍神宮は弘法大師がいたと伝えられる霊所で、標高500mの山の頂にあります。神木であるウバメガシは樹齢約400年と推定され、単独で生育しているウバメガシとしては大変貴重で、和歌山県と田辺市の天然記念物に指定されています。
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高尾山(たかおやま)
標高606mの高尾山は、田辺市全域から仰ぎ見ることができ、市民から親しまれています。その姿は雄大で、元旦の御来光登山は有名。四季を通して訪れる人々のために、山頂近くにはトイレや芝生広場、ログハウスなども設けられています。12月高尾山登山マラソン大会も開かれています。
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高尾山経塚記念塔
高尾山寺屋敷で出土した経塚発掘を記念して、昭和11年4月20日に建立されました。現在の塔は、昭和63年秋、自然倒壊した塔を地元民やその他多くの人々の力添えによって再建されたものです。
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千光寺の寺屋敷跡と経塚
高尾山廃寺(寺屋敷跡)は、今から約1,200年前に和気清麻呂が愛用していた鷹の死を弔うために千光寺を建立したと伝えられています。七堂伽藍を有する立派な寺で、当時修験本尊は千手観音で行基菩薩の作と伝えられ、寺の鎮守の神として愛宕山大権現が祀られていました。この寺屋敷跡から昭和6年、中山雲表氏によって三つの経塚が発掘されました。当時出土した鏡面や装飾具などは、現在東京国立博物館に保存、展示されています。
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川上神社
戦国時代、河内の国野村の郷に住んでいた野村久太夫好久が、佐賀県佐賀郡川上村に祀られていた河上神社から分霊してもらい、川中口にお祀りしたのが始まりです。祭神は、瀬織津姫と、速秋津日子と速秋津日女。速秋津日子、速秋津日女は秋津を拓いたご先祖です。祭りは毎年11月23日。
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市杵島神社
市杵島姫をお祀りした社。弁天さんともいわれています。社は古くから下畑にあり、愛洲資俊が鷹の巣城を築くとき自家の氏神として尊拝した宮です。天正13年(1585)秀吉の紀州攻めにより、愛洲氏から杉若氏に替わった時代がこの神社の最も栄えた時代です。
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中宮神社
衣笠城主によって建立されたもので、当初野久保の地にあり、この地が高尾山の千光寺と衣笠城の中間に当たるところから「中の宮」と称しました。ところが、元和年間山崩れで広大な社地、社殿を失ってしまいました。わずかに残った現在地に仮宮を建てていましたが、明治21年拝殿を新築し、昭和3年に鳥居が建てられました。中宮神社の祭神は、伊弉冊尊と言われ、古来、愛宕山大権現と称してきました。もともとは和気清麻呂公が京都より勧請しました。京都には清麻呂公を祭神とする護王神社があり、古くは氏子が護王神社に参拝し神符を受けて当社に納める習慣があったと言われます。
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磐上神社(いわかみじんじゃ)
佐向谷に沿って300m遡ると左手山麓に磐上神社があります。明治時代、東側に鎮座した立岩明神を合祀。さらに大久保平にあった小祠を併せ祀りました。紀伊続風土記に「立岩明神は大石を神として祀る祭礼11月15日」と記されています。明治末に川上神社に合祀され、後に再び迎えられて現在地に鎮座しています。少彦名神を祀る農耕の神で、疱瘡の神としても尊ばれました。
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宝満寺
塩屋行久(奥州藤原秀衝の弟、秀勝)が建立、開山は絶照和尚。由良・興国寺法灯派の末寺でした。天正13年(1585)、秀吉の紀州攻めで焼失。その後、文禄年間に再建。臨済宗本山妙心寺に所属します。江戸末期、四国八十八箇所霊場を開きました。当時は四国霊場を持つ寺は稀でした。
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千光寺
今から1,200年前、和気清麻呂(733〜799)が大切にしていた鷹が死にました。その遺骨を三つに分け、紀州の高尾山と、都の高雄山と郷里の備前の高尾山に分けて葬ったそうです。その時紀州の高尾山には千光寺を建て、都の高雄には神護寺を建て、手厚く弔ったと言われています。その後、豊臣秀吉の紀州攻めにより焼失。麓に小さな堂を建てましたがこれも焼失。平岡の地に移り、この地にあった西光寺を合併して現在の千光寺が建てられました。それ以来、千光寺は近西国礼所二十五番となり、「名にうてし鷹尾の山に来て見れば、もみじ色づく千光りの寺」と詠われています。
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十王堂
十王堂には、闇魔大王、見る目かぐ鼻地蔵(倶生神)、道祖神の三体の地蔵さんが祀られています。倶生神には元禄15年(1702)作と彫られています。闇魔地蔵は京から持ってきたといいます。この地蔵さんは、明治の神社合祀の際に取り上げられていましたが、明治16年の夏の干ばつに境の人々が雨乞いを口実に戻してもらいました。庭に据えて若衆が一斉に地蔵を洗い、雨を降らせてもらったそうです。
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鷹巣城跡
高尾山の西側、奇絶峡に面する断崖絶壁の上に鷹巣城がありました。衣笠城城主愛洲八郎源経信七世の孫左衛門少尉資俊が南朝に味方してこの城を築き、上・下秋津の地頭を務めました。その後、天正13年(1585)秀吉の紀州攻めの際、杉若越後守によって討伐、焼却されて姿を消しました。
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岡畑城跡
建久元年、源頼朝の家臣塩屋三郎が長瀬境の頂上に城を築きました。紀伊続風土記に「村の寅の方、山上にあり 平地方八間、塩屋三郎行久の城跡といふ 行久は上下秋津の地頭とうふ」とあります。城主行久は岩倉山宝満寺の創立者です。
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高地城跡
左向谷口から龍神山に向かって左手に見える山が高地山で、紀伊風土記に「村の寅の方山の上に高地城跡あり、東西二十間、南北五十三間」と記されています。城の壇は残っていますが城主の名前は不明です。この城跡は開墾の際、多くの素焼きの土器や石斧も出土したことから、太古人の住居跡であったかもしれず、今なお謎の山です。